MENU

ひらばるまさのり母の心情「一緒にいれば良かった…」後悔と謝罪の日々

2024年12月14日、北九州市のマクドナルド店内で中学生2人が死傷した事件。この事件で逮捕された平原まさのり容疑者の母親が息子、まさのりが生まれてから事件に至る現在までを振り返る、とするなら何を語るのでしょう。

それはもちろん、被害中学生2人とその家族への謝罪、そして、息子まさのりへの思いと母親自身の後悔と自責の念でしょう。管理人である私も子どもをもつ母親として、息子が加害者となった母の立場になり今の心情を綴りたいと思います。

平原政徳インスタ顔画像がヤバい!「ナルシストだった」

目次

まさのりが「お母さん大好き」と言ってくれた幼少期

※画像はイメージです

長い分娩時間を経て、出産したわが子を自分の胸に抱いたときの温もりは今でも覚えています。小さな手を握りしめ、その無垢な瞳を見つめながら、この子の未来がどんなに輝かしいものになるかと、胸を膨らませたものです。

私も息子を出産した日は、私の人生で最も幸せな日の一つだったように、平原容疑者の母親にとっても最も喜びに溢れた日だったに違いありません。そして、政徳容疑者が初めての子なら尚さら、喜びもひとしおだったでしょう。

『政徳』という名前は「礼儀正しく、恩義を忘れず、真っ直ぐな心を持った人間になってほしい」という願いを込めて、まさのりの父親が名付けてくれました。

そして、こどもの名前もたくさん案を出し、時間をかけて決めたに違いありません。

子どもの夜泣きや授乳に自分の睡眠時間を削り、育児や家事に追われ疲れ切っても子どもの笑顔に癒され、「お母さん大好き」と言ってくれた時には、嬉しくて嬉しくて疲れも吹きとんだことを今でも思い出します。

そして、近所の方々から「良い子ね」などと褒められた時には、母親として誇らしい気持ちでいっぱいだったにちがいありません。

※画像はイメージです

幼稚園に入園した当初は、私との別れに涙することが多々あり、親としてとまどうこともありました。でも、その心配は友達ができるとなくなり、先生からは「とても思いやりのある子」といわれたり、運動会では転んでしまった友達を助け起こす姿を見て、親として涙が出るほど嬉しくなりました。

子どもが初めて幼稚園に行く時の親の心境は、喜びと不安、期待と心配といった相反する感情を同時に抱えることになり「うれしい気持ちと寂しい気持ちが交互にくる感じ」で複雑だったに違いありません。

小学校に入学してからも、息子、政徳の優しさは変わりませんでした。勉強は平均的でしたが、運動神経はバツグンでソフトボール大会では活躍し、私も誇らしく、そして嬉しかったです。クラスメイトとは放課後も一緒に遊ぶなど仲良く過ごしていました。

そんな中、息子の政徳が小学校3年生の時、妹が生まれました。政徳は妹を本当に可愛がり、「僕が守るから」と言って、よく面倒を見てくれました。兄妹の仲の良さを見ていると、私の心は幸せで満たされました。

母親にとって下の子が生まれた時、お兄ちゃんが赤ちゃん返りしないか心配になり、お兄ちゃんを一番に気にかけなくてはと思うものです。

平原まさのりが学生時代に直面した悲劇と苦悩…

中学生になった政徳は、少し内向的になりました。思春期特有の変化だと思い、私はあまり気にしませんでした。それでも、家族との時間は大切にしてくれ、休日には妹と公園で遊んだり、父とキャッチボールをしたりしていました。

私も少しの変化なら思春期だからかなと思うから、そこまで気に留めないかもしれません。

高校生になると、政徳は少しずつ変わり始めました。バスケ部に入っていましたが部活にもあまり行かなくなり、部屋に籠もることが多くなりました。

私も息子が部屋に引き籠るようになると心配になり、何度も話しかけるでしょう。息子が「大丈夫だよ」と笑って答えてくれても「本当かな」とさらに心配が増すと思います。

そんな中、家族に大きな試練が訪れました。父のガソリンスタンドが倒産し、さらに父が重い病気にかかってしまったのです。政徳は必死に父を励まし、看病も手伝ってくれました。

しかし、父の病状は悪化の一途をたどり、ついには帰らぬ人となってしまいました。父の死は、政徳に大きな影響を与えました。それまでの穏やかさが消え、怒りっぽくなり、家族とも口をきかなくなりました。

私は何度も声をかけ、カウンセリングを勧めましたが、政徳は頑なに拒否しました。大学に進学した政徳は、家を出て一人暮らしを始めました。最初のうちは、時々連絡をくれていましたが、次第に音信不通になりました。私は心配で何度も訪ねましたが、政徳は「忙しい」の一言で会ってくれませんでした。

私が母親の立場なら、父親の死が子どもに与える影響を心配し、寄り添うでしょう。そして、大学進学で一人暮らしになったなら、同じように連絡していたと思います。

平原政徳が社会に出ての挫折と精神疾患「どうすることもできなかった」

社会人になって数年後、政徳は結婚しました。しばらく離れて住んでいたのですが、子どもができたことを機に私と同居することになりました。政徳は朝から夜遅くまで仕事をしていました。

しかし、政徳に子どもができてからは、早く仕事から帰ってくるようになり、休日も子どもの面倒をみるなどかわいがっていました。しかし、子どもが大きくなったある日、突然政徳から「仕事を辞めた」と告げられました。

理由を聞いても明確な答えはなく、ただ「疲れた」の一言でした。その後、政徳は無職の状態が続き、政徳は夜遅くまで起きていて、朝はなかなか起きられない状態になっていました。

徐々に政徳の行動は奇妙さを増していきました。時々、誰もいない部屋で独り言を言っているのを耳にしました。「誰かと話してるの?」と尋ねると、「うるさいな、黙ってろ」と怒鳴られました。

私は戸惑い、傷つきましたが、きっと疲れているのだろうと思い込もうとしました。ある日、政徳が突然「誰かが俺を監視している」と言い出しました。テレビやパソコンを通じて、自分の行動が全て見られているのだと。

私は冗談だと思いましたが、政徳の目は真剣そのものでした。次第に、政徳は外出を控えるようになりました。「外に出ると、みんなが俺のことを笑っている」と言うのです。

私は不安で仕方ありませんでした。「どうして政徳がこんなふうになってしまったの?」と自問自答の日々が続きました。ある晩、政徳が突然大声で叫び始めました。

「出ていけ!俺の頭から出ていけ!」私は恐ろしくなり、震える手で警察に電話をしました。そして、政徳は精神病院に搬送されたのです。診断は統合失調症。政徳の嫁さんからそう聞いた時、私は涙が止まりませんでした。

政徳はしばらく入院し薬物治療を経て、状態が安定したため退院しました。しかし、病院へ行かなくなり、薬も飲まなくなったことで精神状態が再び悪化。幻聴や妄想が出はじめ、私や嫁に暴言や暴力をふるうようになりました。

それで、政徳と嫁は離婚し、私と元妻、孫は自宅を出ることにしました。しかし、私は政徳の様子が気になり、時々自宅を訪問しまさのりと話していました。でも、奇声や騒音を聞いた近所の方から警察へ度々通報されるようになり、警察からも連絡が入るようになっていました。

私が母親の立場なら、平原政徳容疑者が統合失調症で退院後、通院しなくなってたら精神病院のケースワーカーや行政窓口にどうしたらいいか相談すると思います。

やはり、自宅で家族だけが支えるのは限界があります。支える家族もまた疲弊します。そのためには、やはり社会資源をうまく活用するべきだったのではないでしょうか。

ひらばるまさのり事件後の衝撃「私が一緒にいれば」後悔と謝罪の日々

事件の報道を聞いた時の衝撃と後悔を平原政徳容疑者の母親が涙ながらに語ります。

テレビの報道で政徳が中学生を殺傷する事件を起こしたことを知りました。「まさか…」と信じられない気持ちでいっぱいになりました。あの優しかった政徳が、なぜこんなことを…。

私に何ができたのか。私が家を出なければよかったのか。自責の念と後悔が押し寄せ、眠れぬ夜が続きました。振り返ってみると、政徳の変化は少しずつ、でも確実に進行していたのかもしれません。父の死、仕事のストレス、離婚、社会からの孤立。私には気づけなかった、政徳の心の叫びがあったのだと思います。

かつて無邪気に笑っていた我が子が、このような残虐な行為を犯すとは、夢にも思いませんでした。彼の人生のどこで道を誤ったのか、私たちに何が足りなかったのか、答えの出ない問いに苦しみ続けています。

被害者とそのご家族の方々に対する申し訳なさと罪悪感は、言葉では表現できません。私の息子が引き起こした悲劇に、深い悲しみと絶望を感じています。同時に、息子を正しく導けなかった私の無力さに怒りを覚えます。

今、私にできることは、被害者の方々に心からの謝罪を捧げ、息子の罪の重さを受け止めることだけです。かつて希望に満ちていた我が子の人生が、このような形で終わりを迎えることに、言葉にならない悲しみを感じています。

政徳よ、あなたはどうしてこんな道を選んでしまったのか。私の愛は届かなかったのか。あの頃の笑顔はどこへ行ってしまったのか。答えのない問いかけが、私たち家族の心を引き裂きます。

もし、自分の子が加害者になったら、平原容疑者の母と同じように衝撃とともに、苦悩と後悔の日々に明け暮れるに違いありません。どうしたら、こんな事件を起こさずに済んだのか、なんで何も関係のない中学生を狙ったのか。

どうせなら、私にその怒りをぶつけてほしかった、私が身代わりになればよかったと思うでしょう。子どもが43歳になっても自分の子どもにはかわりなく、親の責任を感じるのは必然でしょう。

社会の皆さまへの謝罪と親の責任「一生背負っていく」

私が加害者の母親だとしたら、社会の皆さまへの謝罪と親としての責任を自分が死ぬ時までずっと負い続ける覚悟です。

社会の皆様に対しても深くお詫び申し上げます。私の息子が引き起こした事件により、多くの方々に不安と恐怖を与えてしまいました。親として、息子の行動を止められなかったことへの責任を痛感しています。

振り返れば、政徳の変化に気づいた時点で、もっと積極的に介入すべきだったのかもしれません。専門家の助言を早期に求め、彼の心の闇に光を当てる努力をすべきだったのではないかと、後悔の念に駆られます。政徳の人生は、私にとって喜びであり、誇りであり、そして最後には深い悲しみとなりました。

この悲劇を通じて、私は家族の絆の大切さ、コミュニケーションの重要性、そして心の健康を守ることの難しさを痛感しました。社会全体で、孤立する人々に手を差し伸べ、互いに支え合う環境づくりが必要だと強く感じています。

今、政徳は法の裁きを受けることになります。私たちは彼の犯した罪の重さを認識し、親として最後まで彼を見守る決意です。そして、彼が真摯に罪と向き合い、少しでも償いができることを願っています。

最後に、被害者とそのご家族の方々に心からお詫び申し上げます。私の息子、政徳が引き起こした取り返しのつかない事件により、かけがえのない命が奪われ、多くの方々に深い悲しみと苦しみをもたらしてしまいました。

どんな言葉を尽くしても、皆様の悲しみや怒りを癒すことはできないと承知しております。それでも、心からの謝罪の気持ちをお伝えしたいと思います。息子の行動の責任は、親である私にもあります。

息子の変化に気づきながら、適切な対応ができなかった自分を深く恥じています。皆様の大切な人生を奪ってしまった罪の重さを、私も一生背負っていく覚悟です。

中島咲彩の父は警察署長か「工藤会との絡み」

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)

目次